コラム1~「立場」~について

いつもお世話になっております。相模原市の行政書士、かわな行政書士事務所の川名です。

やりたいことはいつも突然来ます。今回思い立ったことは、コラム的な文章を書くことです。

いつかは、書店に偉大な作家様と一緒に並ぶことも。。。夢は自由です。

大事なことは続けることですね。正直やりたいことと、やらなければならないことで溢れて殆ど追いついておりません。

とはいえ、何でもやってみることが大事なのです。

それでは、第一回目のコラム「立場」についてです。

はりきってどうぞ

 

何かを文章に残すことはとても大事なことだと思います。ツイッターはその瞬間の感情が言葉が表に出てしまい、本当の意図していることが伝わらなかったり、不完全だったりします。自分の感情を吐露するには最適なツールではありますが、最善の場所ではないと痛感しております。そう意味では、自分の媒体を持っているというのは非常に大きいことではないでしょうか。有難い限りです。

基本的に書きたいことを書こうと思うのですが、週1回は絶対に更新しようと考えています。あくまで、40年間生きてきた自分の価値観に基づいて文章を構成しようと考えております。

第一回目のコラムは「立場」ということについて考えたい思います。

物理的に言えば、例えば180㎝の人が見える景色と、150㎝の人が見える景色は違います。同じものを真っ直ぐ見ていても、気付く視点は違います。そこに、個人的な感情というものが加わるので、本当にややこしいものです。
結論を申すと、完全に物事に対する意見が合致すること等ないと私は思います。個人主義が主流の欧米はどうなのでしょうか。そこについてはわかりませんが、少なくともこの日本で生活をしている以上は、意見の違いについては、いろいろな言い方ができますが、妥協、折衷案、合意、こんなところで人は納得というか、落としどころを見つけているのでしょう。

そして、立場において最もややこしいのが、正義が正しいということではないということです。相手がどんなに不正であっても、相手のロジックが甚だしくずれていても、それぞれに個人の人格があり、その主張をすることは公共の福祉に反しなければ、それを表現することは自由ですし、そもそも思想良心の自由は常に保障をされるべきものです(内心に留める限り)。

大事なことは、その自分の考えが正しいとしても、間違っていたとしても、それを人に強要しないことです。例えば、「子どもは絶対的に無条件に保証されるべきだ」という考えがあるとします。これを正しいか間違っているかを判断することはできません。私は間違っているとは思いませんが、100%正しいと賛同することもできません。保証される子どもの反対側に、そこに自由を制限される人がいるとしたら、何等かの対策を取らなければならいと感じます。
子どもは自由であって自由でありません。自ら選択する余地のない中で生活を余儀なくされ、大人たちの喧嘩に巻き込まれ、その中で自分の課題と向き合って生きていかなければなりません。学校もあるし、勉強もスポーツも。大人であれば、嫌な環境であれば自分からその場所を出ることはできます。しかし、子どもはどんなに外に自由があったとしても、自分の力で外に出ることはできません。ご飯を食べることも、服を買うことも、住居確保することもできません。

こういう状況を冷静に考えるならば、子どもは絶対的に保証されなければならないということも理解すべきところです。ここで私が意見したいことは、冒頭申し上げた立場ということになります。子どもが絶対的に保証されなければならないという考えの反対側にそれに影響される人たちがいた場合、ここをどのように処理するかということです。

これを解決するには、至極簡単な話ではありますが、相手の立場を尊重して折衷案を模索するしかないと思います。しかしこれがなかなかできないのです。なぜできないのか、それは自分の考えが絶対的に正しいと思い込んでいるからです。相手側の立場等を考える必要もなく、子どもは絶対に保証されるべきと考えているからです。例えて言うならば、何の罪のない人を殺したとします。全世界殆ど全ての人が殺した人を悪だと思います。これについて法的根拠を申し上げる必要はないでしょう。刑法で定められているからとか、そういう次元で考えるものでもないはずです。すなわち、子どもは絶対的に保証されるべきという考えを持つ人は、この殺人犯は絶対に悪だと同じくらいの確かな根拠を持っているから、それに影響される人の気持ちというところまで考えが及ばないのだと思います。私たちは犯罪心理学者でない限り、殺人犯の正当性を考えないし、被害者や被害者の家族のことをまず考えるでしょう。

事例に関しては、些か極端ではないかということは私も十分に理解をしております。論点を際立たせるために、わかりやすい事例に致しました。

殆どの物事は簡単に善と悪を二分することができるものではありません。どちらにも言い分があります。どちらも間違ってはおりません。大事なことは、自分の考えが正しいという一点張りはやめ、例え景色が違っても相手の立場に立って物事を見るという習慣が大事ではないでしょうか。
最も愚かなことは、自分が一番正しいと思っているどころか、それすらの意識もない状態で自分の意見を押し付けることでしょう。